円盤投げ ウィルギリウス・アレクナ─The Discus Legend

ウィルギリウス1リトアニア語では「ヴィルジリウス」に近い発音である・アレクナ(英語:Virgilijus Alekna 1972年2月13日)はリトアニアの元円盤投げ選手。M35-39,M40-44クラスの世界記録保持者。自己記録は世界歴代2位の73m88。

Profile

ウィルギリウス・アレクナ(Virgilijus Alekna)

国籍 リトアニア

種目 円盤投げ

生年月日 1972年2月13日

身長 200㎝(6’7 ft.)

体重 130kg(287 lbs)

自己ベスト 円盤投げ:73m88(2000)NR 砲丸投げ:19m99(1997)

叫び声:アヴァァァァァーッ!!!/アヴァッ!


獲得メダル

オリンピック
2000 シドニー円盤投げ
2004 アテネ円盤投げ
2008 北京円盤投げ
世界陸上選手権
1997 アテネ円盤投げ
2001 エドモントン円盤投げ
2003 パリ円盤投げ
2005 ヘルシンキ円盤投げ
欧州選手権
1998 ブダペスト円盤投げ
2002 ミュンヘン円盤投げ
2006 イエテボリ円盤投げ

 

来歴

1990年代半ばまでアトランタ五輪の5位が最高と、メダルに手が届かないでいた。1997年世界陸上アテネ大会で、当時の絶対王者ラルス・リーデル(ドイツ)に次ぐ銀メダルを獲得(66m70)。2000年、28歳の時には世界歴代2位の73m88を記録。同年のシドニー五輪も勢いそのままに69m30を投げ初優勝。

翌年のエドモントン世界陸上2001ではまたしてもリーデルに敗れるが以降の世界大会ではアレクナが全勝。2004年アテネ五輪も制し五輪2連覇を達成。

翌年2005年ヘルシンキで行われた世界陸上では世界大会初の70m超えとなる70m17で圧勝し、世界陸上でも連覇を果たした。

2012年、北京五輪以来の世界大会でのメダル獲得を目指したロンドン五輪では67m38で惜しくも4位。これが最後のオリンピックとなった。

同年のダイアモンドリーグブリュッセルにて引退を表明したが、翌年に現役復帰し、モスクワ世界陸上に出場。しかし、予選通過記録65m00をクリアすることができず、61m91で予選敗退となった。

その後2016年まで競技を続け、ヴィリニュスの競技会を最後に第一線から退いた。

キャリア最後の2016年は59m53と、44歳にして日本トップクラスの選手と遜色ない記録をマークしての引退だった2現在の日本記録は堤雄司の持つ62m59。59m53は日本歴代では5位に相当する

 

The Discus Legend

 

1972年2月13日、クピシュキス(Kupiškis district)地区・テルペイキアイTerpeikiaiという小さな村に生まれた。地元クピシュキス地区のルコニアイ小学校3Lukoniai Primary School、スバチュス中等学校4Subačius Secondary Schoolを卒業。この頃にスポーツ選手としての将来を嘱望され、後にパネヴェジス寄宿学校5Panevėžys boarding schoolへ進学。

1991年にはヴィルニアス・ペダゴジカル・インスティチュートに参加し、身体教育学会6the Academy of Physical Educationで学んだ。2005年に卒業し、2009年には修士号を取得した。競技の傍ら、リトアニア初代大統領アルギルダス・ブラザウスカスのボディーガードを務めていた。

円盤投との出会い

パネヴェジス寄宿学校に入学した当初はバスケットボール選手だったが、学校側にはバスケットボールのノウハウが不足していたため上手く行かなかった。その後数年間やり投げに取り組んだがやはり上手く行かず、一時は学校を去ることも考えていたという。

そんな折、コーチに「円盤投げに出場してみてはどうか」と提案され競技会に出場したところ、全く練習していなかったにもかかわらず優勝。これが円盤投げ選手としてのキャリアを歩むことになったきっかけである。

 

初めての世界大会は1995年世界陸上イエテボリ大会。予選B組10位(59m20)で予選敗退し世界の洗礼を受けた。

96年になると自己記録を67m82まで伸ばし、翌年の97年世界陸上アテネ大会では絶対王者ラルス・リーデル(ドイツ)に次ぐ銀メダルを獲得。リトアニア勢のメダル獲得は92年バルセロナ五輪のロマス・ウバルタスの金以来であった。

99年セビリア大会では67m53の好記録をマークするも4位に終わり二大会連続のメダル獲得はならなかった。

主な収入はボディーガードによる月給ではなく、大会で優勝することで得られる報奨金であった。2000年~2006年の間にリトアニアオリンピック委員会から得た報奨金は100万リタスに上ると推定される。

 

2000年シドニー五輪

この年リトアニア選手権で73m88の世界歴代2位の記録をマーク。ユルゲン・シュルトの持つ74m08の世界記録まであと20㎝まで迫り、優勝候補に一躍名乗りを上げた。

そして迎えた五輪本番。予選は67m10で一発通過したが、決勝では一投目58m55しか投げられず失投。「円盤が手から抜けた」とアレクナ。

しかし2投目に67m54をマークしてすぐさまリズムを取り戻し、2位に浮上。

「2投目も失敗していたら、ナーバスになっていたかもしれない」

3投目、68m73で首位に立つと、5投目に69m30まで伸ばした。

6投目、2位のラルス・リーデル、3位のフランツ・クルーガーいずれも記録を伸ばせずアレクナの金が確定した。

 

アレクナ
もっと記録を伸ばしたかったが、緊張感が高い試合ではそう思い通りにはいかないものだ。
2000年はいい年だった。息子マルティナスが生まれ、金も獲った。

 

勝利の陰に

順当に金を獲ったように思われるが、実際は出場すら危うかった。五輪一か月半前に膝に大怪我を負っていたからである。

医者の見立てでは手術が必要と診断されたが、五輪のため手術は断念。

怪我の数日後にはトレーニングを再開した。

五輪を直前に控え、ライバルに弱みを見せることを嫌ったアレクナは、足を引きずっていても「“秘密の実験中”だ」といって誤魔化したという。

五輪には膝にサポーターを巻いて出場した。

シーズンの終わりに半月板の手術を行い、術後は良好だったようだ。

 

2001年エドモントン世界陸上

70m99のワールドリーダーとして臨んだ世界陸上。

決勝一投目に67m65、3投目に69m40をマークして4投目までリードしていたが、5投目にラルス・リーデルが69m72の大会新を出し、そのまま逃げ切った。

アレクナは自身2つ目の銀メダルを獲得。

 

2003年パリ世界陸上

世界ランクは68m95で2位と、70mスロー無しで本番を迎えたパリ世界陸上。

1投目に69m69のシーズンベストを放ちそのまま逃げ切り優勝。

6投目に70mを超える大投擲を見せたもののファウルに終わり、結局この年は70mスロー無しでシーズンを終えた。

大会後、政府から報奨金として8万リタス(約290万円)を贈られた。

 

アテネ五輪

6月に70m97を投げて世界ランクトップで迎えたアテネ五輪。予選通過に3投要したが67m79で無事決勝進出を果たす。決勝では一投目に69m89の五輪新をマークし、ラルス・リーデルがアトランタ五輪で出した69m40を更新する大投擲。

だが喜びもつかの間、ハンガリーのロバート・ファゼガシュが2投目に70m93を投げてアレクナの五輪記録をさらに更新。ファゼガシュは前年パリ世界陸上の銀メダリストで、アレクナも出場した6月の大会で70m83の世界ランク2位の記録をマークした選手であった。

リズムを完全に崩されたアレクナは5投目に69m49をマークするも他は全てファウルに終わり、二連覇を逃した。

 

アレクナ
1投目でいい記録が出たので理想的な展開だったが…。あれ以上の記録は難しいので金メダルはあきらめていたんだ(アレクナ)7https://web.archive.org/web/20160304223234/http://www.tbs.co.jp/seriku/2005/pn/athletes/virgilijus-a.html

 

ところが数日後、事態は思わぬ展開に発展する。

ファゼガシュ失格

金メダルを獲得したファゼガシュが尿サンプルの再提出を求められたがそれを拒否し、ドーピング違反でIOCから失格を言い渡された。ファゼガシュの金は剥奪され、アレクナが繰り上がりで金メダルを授与されることになった。

日本人ならば「アテネの繰り上がりの金」と聞くとハンマー投げの室伏広治を思い出す方もいるだろう。ただ室伏とは異なり、アレクナの場合は大会期間中に不正が判明し、処分が行われたことは不幸中の幸いだったかもしれない。

アレクナ本人も「シドニーで勝っておいて良かった。五輪チャンピオンとしてウイニングランをしたあの素晴らしい気分は、アテネでは味わえなかったからね」と述懐している。

 

アレクナ
決勝の後「負けた」という気分だったけど、翌日に金が授与された。メダルセレモニーでは観衆も暖かく迎えてくれたよ。

 

こうしてアレクナは五輪連覇を達成。五輪連覇は1968年のメキシコ五輪で4連覇を果たしたアル・オーター以来36年ぶりの快挙であった。五輪記録69m89は今もなお破られていない偉大な記録である。

 

2005年ヘルシンキ世界陸上

アレクナは70m67で世界ランク1位。エストニアのゲルド・カンテルが自身初めての70mスロー(70m10)を記録し、アレクナやリーデルを脅かす存在となってきた。アレクナは予選を68m79で楽々と突破すると、決勝では2投目に67m90、3投目に68m10と他を寄せ付けない内容。

積年の宿敵、リーデルは63m05で9位に終わり、前半3投で姿を消した。

4投目、伸び盛りのカンテルが奮起。68m57をマークしアレクナを47㎝逆転。続くアレクナは5投目まで記録を伸ばせず、万事休すかと思われた。6投目、カンテルは62m64で伸ばせず、アレクナの結果を待つことになる。

最終投擲者として迎えた6投目、アレクナの手から放たれた円盤はカンテルの記録を大きく超え70mラインを超えたところに落下。70m17を投げ、大逆転優勝を果たした。この記録はリーデルの持っていた69m72の大会記録を塗り替えたばかりでなく、五輪を含む世界大会史上初の70mスローであった。

五輪記録同様、現在でもこの記録は塗替えられていない。

 

2006~引退まで

2006は欧州選手権を初制覇(68m67)。これで主要国際大会のタイトルを総なめしたことになる。この年も無敗のままシーズンを終えた(SB71m08)。

王座陥落

2000年から2006年まで絶対的存在であったが、2007年大阪世界陸上からその力に陰りが見え始める。その年71m56のセカンドベストをマークして世界陸上を迎えたが、予選は3投目でようやく通過。

しかし決勝では前回の銀メダリスト、ゲルド・カンテルが大きな壁として立ちふさがった。カンテルは2006年に73m38の世界歴代3位をマークするまで力をつけてきており、またこの年も72m02のワールドリーダーとして世界陸上に臨んでいた。

そのカンテルは3投目、68m94を投げてトップに立った。一方のアレクナは終始浮かない表情で、3投目に65m24と低空飛行。

カンテルリードのまま迎えた6投目、アレクナは金どころかメダル圏外にいた。

乾坤一擲の投擲だったが、円盤が高く上がってしまい65mライン手前で落下、4位で競技終了した。メダルを取れなかったのは95年のイエテボリ大会以来12年ぶりのことであった。

また、この敗北により2001年から続けていた連勝記録が37でストップした8最後に敗れたのは世界陸上エドモントンでリーデルが優勝した時。

実はシドニー五輪同様、怪我を抱えての出場。大会直前の8月20日に右ふくらはぎを傷め、通常の歩行すら困難な状態だったという。

トレーニングはほとんど積めておらず、予選の段階で初めて円盤を触ったのである。

アレクナはこの時既に35歳。28歳のカンテルら若手と比較すると、一年を通して万全な状態を保つことは難しかった。

 

アレクナ

まず、ファンの皆には謝らせてほしい。もっと良い結果を求められていたのに、それに応えられなかった。心から申し訳ないと思っている。

 

試合後、記者に質問される前に自分から謝罪の念を述べた。

 

北京五輪

この年36歳を迎えたアレクナだが、71m56のシーズンベストをマークして好調だった。この記録はM35-39のマスターズ記録であり、ジョン・パウエル(アメリカ)が持っていた71m26を30㎝更新するものだった。

北京五輪決勝ではカンテルとの一騎打ちかと思われたが、ピオトル・マラチョフスキに3㎝差で敗れ銅メダルに終わる(67m79)。

彼にとっては銅メダルは敗北と同じだという。

2009~2013

以降アレクナが表彰台に上がることはなかった。2009年ベルリン世界陸上,2011年テグはいずれも4位。

2012年には40歳を迎えながらも70m28をマーク。それまでアル・オーターが保持していた69m46を上回り、M40-44のマスターズ区分で初めて70m台に乗せる世界記録を出した。自身五度目のオリンピックとなったロンドンの開会式ではリトアニア選手団の旗手を務めた。

世界ランク2位で迎えたロンドン五輪では決勝に進むも、上位3人が68m台で並ぶ大接戦が展開。

アレクナは1投目の67m38から記録を伸ばせず、またしても4位で競技を終了した。この敗北により、五輪4大会連続のメダル獲得はならなかった。

試合後、気温低下によるコンディションの悪化を敗因に挙げた。完璧ではないにせよ、調子自体は悪くなかったという。

2013年モスクワ世界陸上ではついに予選を通過することができず、世界大会でのキャリアに終止符を打つことになった。世界大会での予選敗退は95年イエテボリ大会以来18年ぶりの屈辱であった。

2014~2016年

その後も競技を続け、2014年欧州選手権予選12位、シーズンベスト65m76。

以降は国内大会にしか出場しておらず、2016年リトアニア冬季投擲選手権で57m60で4位に終わり、キャリアを締めくくった。

政治の道へ

2016年、5年務めていたスポーツアドバイザーを離れ、当時野党であったLiberal Movement(自由運動)党から選挙に出馬した。

自由党を選んだ理由は、もともとこの党に顔が利き、決心を後押ししてくれたからだという。

国会議員(リトアニア語:Seimas)に立候補したアレクナだが、小選挙区では敗北。しかし比例代表制により当選し、第12次リトアニア国会の議員となった。

アレクナは「国は健康な人間を育てるという目票を必ず持つべきだ。活動的な人間こそ国家繁栄やより強固な経済の土台となる」との持論を展開している。

人物

試合中でもあまり表情が変わらない。淡々と試技を続け、優勝しても派手なパフォーマンスはせず、落ち着いた笑みをたたえる寡黙な選手である。

これまで獲得したメダルは全てカウナスのリトアニアスポーツミュージアムに展示されている9家にあっても誰も見ないからだそう

現役時代はトレーニングによる疲労もあり余暇を楽しむ余裕はなかったが、現在は機会があればスポーツ施設を訪れたり、夏季には自然の中でトレーニングするという。これまでスポーツが生活の中心であったため、アスリートは身体の欲求に従い生涯スポーツをするものだという考えによるものである。ゴルフが大好きで、ヴィルニュスは最適の環境だと言い、テクニックを磨くのに躍起になっている。2016年頃から始め、ゴルフシーズンである夏が楽しみで仕方ないという。

50歳を迎えた今はこれまで気にかけていなかった健康に気を遣っている。

メンタルコントロール

試合の前になると人と距離を取り、家族とのコミュニケーションさえ最小限に留め、自然の中で思慮にふける。そして目標だけに集中するよう努める。これが彼独自のメンタルコントロールである。

 

アレクナ
(はたから見て)頑丈に見えなければならない。さもないと簡単に対戦相手の餌食となってしまうだろう。

 

勝利にいつまでも執着せず、状況を詳細に分析し、後の勝利につなげていくことがずっと有意義だという。

ボディーガード時代に参加義務があった心理学の授業のおかげで知識は豊富だと振り返った。

最も思い出深いオリンピックは「全てが新しかった」と語る自身初の五輪であったアトランタ。今でも時々思い出すのは初めて金を獲ったシドニーだという。

自身もドーピング違反者による被害を被った身として、引退後もアンチ・ドーピングを貫いている。2016年、ロシアの組織的ドーピング問題についてロシア選手のリオ五輪出場が認可された際「残念だ」と語った。一部の違反選手に罰則を科すことについては「悪くはない」としつつ、「一度ルールを破ったアスリートはまた同じことをするかもしれない」と厳しい見方を崩さなかった。

 

家族

農家である父スタシース・アレクナ10テイペイキアイではごくありふれた苗字の一つらしい。、母ヤニナの間に生まれる。兄リカルダス、妹ジドラスを持つ三人きょうだいの次男である。現在はリカルダスが農園を受け継ぎ、400エーカーの土地で農作物などを育てている。

元走幅跳の選手であった妻クリスティーナと2000年に結婚。同年、長男マルティナス(Martynas)が誕生し、2002年に次男マイコラス(Mykolas)、2008年に長女ガブリエーリ(Gabrielė)をもうけた3児の父である。犬も飼っている。

息子二人もまた円盤投げ選手で、長男マルティナスは世界U20選手権2018で円盤投げで決勝に進み10位。2019年の欧州U20選手権に出場し11位。次男マイコラスは2021年世界U20選手権で優勝。現在はカリフォルニア大バークレー校で競技活動を行っており、2022年世界陸上オレゴンでは史上最年少となる19歳で決勝進出及び銀メダルを獲得する偉業を達成した。長女のガブリエーリも陸上の道を志し、現在は跳躍・短距離選手として活動。U16国内選手権の走り幅跳びでは2位に入るなど優秀な成績を収めている。

アレクナ本人も父親として子供たちが同じ道に進んだことを喜んでおり、自身の経験に基づきアドバイスを行うこともある。彼らにはそれぞれコーチがいるため、過干渉にならないよう注意しており、自分の意見を言うことはあってもそれを押し付けることはなく子供たちの自由意志を尊重している。

年に二回、両親が暮らす故郷のテイペイキアイ村にアレクナ一家全員で集まり団欒を楽しんでいる。

アレクナジュニア

 

技術面

特長はなんといっても長い手足だ。ウイングスパン224㎝11かつてウィキペディアなどでは222㎝記載されていたが、2023年にアレクナ本人がSNS上で公言したことにより実際には224㎝であることが判明↓https://www.instagram.com/p/CoNuqRwJPKq/?utm_source=ig_web_copy_linkを活かした回転半径の大きいターンを持ち味としている。

手の長さだけで言えば、アレクナより長い選手はNBAにも存在するが、特筆すべき点は身長比だ。

アレクナより長い選手は7フッター、つまり210㎝を超えるような選手ばかりである。NBAでアレクナに最も近い体格・ウイングスパンを持つ選手にジェイソン・マキシエルという黒人選手がいる。

彼の身長は198~201㎝12NBAでは靴を履いて計測するため実際の身長は公称より低くなる。、ウイングスパンは2m21㎝とアレクナとほぼ同じ。

身長比で9インチを超えるウイングスパンを持つ選手はこのマキシエルを含め、NBAの歴史上わずか数人のみである。

すなわちアレクナはNBA選手と比較して遜色ないばかりでなく、歴代上位にも比肩するウイングスパンを持っているということになる。

ところがNBA選手のように身長が高すぎると、2.5mのサークルを上手くターンすることは難しい。

また、身長が高ければ高いほど当然体重は重くなり、円盤投げに必要なアジリティは失われる傾向にある。

それらを考慮するとアレクナの200㎝という身長は2.5mのサークルにおいて最適であると考えられる。

円盤投げに必要な運動能力をキープしつつ、サークルが広すぎることも、狭すぎることもない。

アレクナの体格はまさに円盤投げ選手の理想といっていいだろう。

エピソード

2007年までTBSから「リトアニアのケビンコスナー」という二つ名で呼ばれていた。

ロンドン五輪の際、自分の円盤を持ち込んだにもかかわらず使用を許可されなかった。

2005年から自身が主導する「アレクナ杯」をリトアニアで毎年開催している。

「自分のメダルを最も心待ちにしているのは誰か」と記者に質問された際、「リトアニアだ」と即答している。

陸上を始める前は、バスケットボール選手だった。リトアニアバスケットボールリーグの女子選手とリトアニアの男子スポーツスターが対戦するイベントに参加したことがあり、リトアニア男子チームは52対47で敗れた。アレクナはそのうち6得点を記録した。

【アレクナのダンク】

 

2022年、ウクライナに対する人道支援のため自らのサインを記入した円盤をオークションに出品しSUVの購入費用に充てた。

ボディーガードの経歴

Management Security Department (SAD)にて、リトアニア大統領・首相を歴任したアルギルダス・ブラザウスカスAlgirdas Brazauskas)のボディーガードを務めていたことがある(90年代~2000年代半ば)。

通常SADでは大統領、首相の区別なくローテーション制で身辺警護にあたるが、アレクナはブラザウスカスの警護のみを担当した。

大きな大会の前にはトレーニングに専念するべく公的休暇を取得していたが、リトアニアオリンピック委員会から与えられる毎月のスカラシップにより経済難に陥ることはなかった。

情報筋によると、実はブラザウスカスから与えられたものであるそうだ。本人曰く、ブラザウスカスとの関係はほとんど公的なものだったという。

ブラザウスカスとアレクナ

 

ブラザウスカスの死後、彼とのエピソードについて聞かれたことがあった。ある時、コミュニケーションを取ろうと大統領が「離れてないで近くに来なさい」と促したが、自分が気の利いた話題を出せなかったことを後悔していると答えた。

 

トリビアの泉

フジテレビ系列で放映されていたテレビ番組「トリビアの泉」のコーナー「トリビアの種」に出演したことがある。

テーマは「大相撲で投げられる座布団は何m飛ばせるか」。

放送時期はパリ世界陸上を制して間もないころであり、アレクナに白羽の矢が立った。結果は19m85。自身の砲丸投げのベスト記録(19m99)にも届かなかった。

 

成績

主要大会成績
年次競技会順位記録(m)
1994欧州選手権1756.38
1995世界選手権(イエテボリ)1959.20
1996オリンピック(アトランタ)565.30
1997世界選手権(アテネ)266.70
1998欧州選手権(ブダペスト)366.46
1999世界選手権(セビリア)467.53
2000リトアニア選手権173.88 (NR)
2000オリンピック(シドニー)169.30
2001世界選手権(エドモントン)269.40
2002欧州選手権(ミュンヘン)266.62
2003世界選手権(パリ)169.69
2003ワールドアスレチックファイナル(モンテカルロ)168.30
2004オリンピック(アテネ)169.89
2004ワールドアスレチックファイナル(モンテカルロ)463.64
2005世界選手権(ヘルシンキ)170.17
2005ワールドアスレチックファイナル(モンテカルロ)167.64
2006欧州選手権(イエテボリ)168.67
2006ワールドアスレチックファイナル(シュトゥットガルト)168.63
2007世界選手権(大阪)465.24
2007ワールドアスレチックファイナル(シュトゥットガルト)265.94
2008オリンピック(北京)367.79
2008ワールドアスレチックファイナル(シュトゥットガルト)861.03
2009世界選手権(ベルリン)466.36
2009ワールドアスレチックファイナル(シュトゥットガルト)167.63
2010欧州選手権(バルセロナ)564.64
2011世界選手権(テグ)664.09
2012オリンピック(ロンドン)467.38
2013世界選手権(モスクワ)1661.91
2014欧州選手権(チューリヒ)2159.35
2015リトアニア選手権55.37
2016リトアニア選手権57.60

 

受賞歴

2000年、2004年、2005年、2006年と4度リトアニアアスリートオブザイヤーに選ばれている。

2000年、アメリカの陸上誌「Track and Fields News」でアスリートオブザイヤーに選ばれた。

アテネの名誉市民でもある。

 

73m88

自己ベストの73m88は実質的な世界記録と言えるかもしれない。世界記録保持者のシュルトのセカンドベストは70m46。70m台に至ってはこの二回のみである。

円盤投げの競技特性上セカンドベストが大きく離れてしまうことは珍しくないが、それでも大抵は2m前後に収まる。

他にも風の条件や東ドイツであることによるドーピング疑惑など疑わしい点がいくつかあるが、アレクナは常にクリーンなアスリートであったことを考慮すると世界記録と見なしても差し支えないだろう。